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足摺岬 田宮虎彦著 [文学]

中学校か高校の国語の教科書に載っていた田宮虎彦著の小説『足摺岬』、人生に絶望した大学生が死に場所として足摺岬を選び、訪れたものの、自殺することなく、たまたま泊まった商人宿で伴侶を見つけるというお話。もっとも太平洋戦争前後のお話で、結婚相手は若くして亡くなり、その弟は特攻隊に召集されたものの復員してから深酒にはまるようになってしまったりという悲しいストーリーです。人のよさそうな行商人、幕末に官軍に討たれた藩の元藩士の老人など個性豊かな登場人物がリアルに描写されていました。
なぜか気に入ってしまった私は、田宮虎彦の他の作品が読みたくなり、校内の書店で紙箱入りの旺文社文庫『足摺岬他五編』を買って読みました。この本は今でも手の届くところに置いてあり、紙箱はボロボロになって捨てられてしまいましたが、本体は何十回と読まれています。
他五編というのが、『卯の花くたし』『鹿ケ谷』『比叡おろし』『絵本』『菊坂』。旧制第三高等学校から東京帝国大学へ進学した苦学生を主人公とした私小説。『比叡おろし』までの三編は京都が舞台で、『絵本』以降は東京が舞台になっています。これらの作品を読んで、京都の大学へ進みたいと強く思うようになりましたから、人生の進路を決めるに当たって大きな影響を及ぼした一冊と言っていいでしょう。
物語の舞台は京都と東京なのになぜ京都を選んだのか。今思うに、京都を舞台とした作品中には琵琶湖疏水やその周辺の豊かな自然が描写されていたのに対して、東京を舞台とした二編には都会の殺伐とした風景だけが書かれていたのが理由のような気がします。

私は、特別裕福な家庭に育ったわけではありませんが、経済的には不自由することはありませんでしたから、苦学生に憧れていた一面もありました。父が仕事の関係で大阪にアパートを借りていたこともあり、最初の2年は大阪から通学し、残り2年は百万遍の近くから歩いて通いました。吉田神社や如意が嶽(大文字山)にはよく登りましたが、他はあまり訪れませんでした。もっと街歩きをしておけばよかったと思います。

小説を読んでから、一度は訪れてみたいと思っていた足摺岬を初めて訪れたのは21歳の12月25日だったと思います。大学が冬休みに入り、愛知県の実家に帰省するつもりが、京都駅で国鉄の四国周遊券を買って西へ向かいました。岡山から宇野線。夜遅くに宇高連絡船で高松に渡りました。当時は全国的に夜行列車が多く運行されていて、周遊券さえ持っていれば、急行は急行券なしで乗車できました。 日付が変わってすぐに発車する中村行きの夜行普通列車に乗って終点の中村駅へ。翌朝バスに乗って足摺岬へ向かいました。お昼前には着いたと思います。

石礫のように檐をたたきつける烈しい横なぐりの雨脚の音が、やみ間もなく、毎日熱にうなされていた物憂い耳朶を洗いつづけていた。

小説『足摺岬』の冒頭文。私は嵐の足摺岬、せめて荒波の押し寄せる足摺岬を期待して訪れたのですが、晴天で風もなく椿の花が咲いていました。 凪いだ太平洋を眺めて、こんなはずではなかった というのが正直な感想でした。
そのまま中村駅に戻り、四国4県を5日間ほど放浪してから実家に帰ったように思います。宇和島から高松へ向かう夜行列車で前の席に座った美容師のお姉さんに缶コーヒーをご馳走してもらったことをふと思い出しました。せっかくだからと帰りは仁掘連絡船で瀬戸内海を渡りました。その後間もなくしてこの航路は廃止されましたから貴重な経験をしたと言えます。

それより以前に父と二人で車で四国を旅行したこともありますが、その時は高知から室戸岬を訪れ、足摺岬には行きませんでした。

20代から30代にかけては、当時携わっていたボランティア活動で、松山、徳島、高知を度々訪れました。その後、仕事でも四国各地を何度となく訪れました。高知のお取引先でご馳走になった鰹のたたきの美味しさは忘れられませんね。宇和島でウツボを食したこともあります。

2回目に足摺岬を訪れたのは9年前の5月になります。知人に現地ガイドを紹介していただき、小説に書かれていた竜串の奇岩などを見て回りました。その時もやはり静寂な足摺岬でしたが、なぜか物足りなさは感じませんでした。

今年はたぶん無理でしょうが、来年9月の台風シーズンに数日間足摺岬に滞在してみましょうか。ふとそんなこと思いました。四国八十八カ所巡礼も全行程徒歩でいわゆる通し打ちで体験してみたい。


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