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山椒魚 井伏鱒二著 [文学]

山椒魚が大きくなってしまい、棲家である岩屋の中から出られなくなったというお話。 国語の教科書で読んだことがある人も多いと思います。

井伏鱒二の本名は満寿二ですが、釣りが好きなので、鱒二としたとか。 確かに、1926年発表の『鯉』という短編小説には釣りのシーンが登場します。

『山椒魚』は、もともとは1923年25歳の時に発表した『幽閉』という作品でした。処女作です。1929年に筆を加えて、『山椒魚』と改題されています。 前述の『鯉』も1928年に加筆されていますから、一度発表した作品に手を加えることはこの作品に限ったことではありません。


山椒魚は悲しんだ。

この一行から始まる『山椒魚』ですが、ぼんやりと岩屋の中で過ごしているうちに出入り口よりも大きく育ってしまい、閉じ込められた間抜けな山椒魚のお話と記憶していました。
半年ほど前に、NHKラジオの【朗読の時間】で聞いてみると、後半は、岩屋に紛れ込んできた蛙を2年にわたって閉じ込めてしまう意地の悪い山椒魚のお話でした。

最後の部分、NHKラジオで聞いていて心に残ったのですが、井伏鱒二本人は80歳を超えてからの自選全集に掲載する際にこの部分を含む十数行を削除してしまいました。


削除部分を、1974年の講談社文庫から以下に転載。


 ところが、山椒魚よりも先に、岩の凹みの相手は、不注意にも深い歎息をもらしてしまった。それは「ああああ」という最も小さな風の音であった。去年と同じく、しきりに杉苔の花粉の散る光景が彼の歎息を唆したのである。
 山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかった。彼は上の方を見上げ、かつ友情を瞳にこめてたずねた。
「お前は、さっき大きな息をしたろう?」
相手は自分を鞭撻して答えた。
「それがどうした?」
「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい。」
「空腹で動けない。」
「それでは、もうだめなようか?」
 相手は答えた。
「もうだめなようだ。」
よほどしばらくしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」
 相手は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ。」

この、『山椒魚・本日休診』の講談社文庫。他に、『鯉』 『屋根の上のサワン』 『丹下氏邸』 『集金旅行』 『「槌ツァ」と「九郎冶ツァン」はけんかして私は用語について煩悶すること』 『へんろう宿』 『遥拝隊長』 が収められています。
 私的には、『屋根の上のサワン』と『集金旅行』がおすすめ。

白居易 荔枝図 [文学]

荔枝(ライチ)を描いた図に白居易が書き添えた文。 文中元和十五年は西暦820年。中国唐の時代。

【原文】
荔枝生巴峽間。樹形團團如帷蓋。葉如桂冬青、華如橘春榮、實如丹夏熟。朵如葡萄、核如枇杷、殼如紅繒、膜如紫綃 。瓤肉瑩白如氷雪、漿液甘酸如醴酪。大略如此、其實過之。若離本枝、一日而色變、二日而香變、三日而味變。四五日外、色香味盡去矣。
元和十五年夏、南賓守樂天、命工吏圖而書之。蓋為不識者與識而不及一二三日者云。


【書き下し文】
茘枝(れいし)は巴峡の間に生ず。樹形は團團として帷蓋(注1)の如し。葉は桂の如くして冬に青く、華は橘の如くして春に榮(はなさ)き、實は丹(注2)の如くして夏に熟す。 朶(ふさ)は葡萄の如く、核は枇杷の如く、殻は紅繪(注3)の如く、膜は紫綃(注3)の如し。瓤肉(注4)は塋白(えいはく)にして氷雪の如く、漿液は甘酸にして醴酪(れいらく)の如し。大略此の如し、その實(じつ)之に過ぐ。若し本枝を離るれば、一日にして色變(へん)じ、二日にして香變じ、三日にして味變ず。四五日の外、色香味儘(ことごと)く去る。元和十五年夏、南賓の守(注5)樂天、工吏に命じて圖(え)がかしめ之を書す。蓋(けだ)し識らざる者と識って一二三日に及ばざる者との為にすと云う。

注1 帷蓋:馬車の丸い屋根、それにカーテンがついたもの。
注2 丹:赤い丸薬
注3 繪・綃:いずれも絹織物
注4 瓤肉:果実の肉
注5 南賓守:南賓の太守。南賓は巴峡の上流に位置する郡。


【和訳】
ライチは巴峡の山間に産出する。木の形は丸々として馬車の丸屋根のように見える。葉は桂のように冬も落葉することなく青々としている。花は橘に似て春に咲き、実は赤い丸薬に似て夏に熟す。 葡萄のように房となり、種は枇杷のようである。外皮は赤い絹織物のような色合いで、紫の絹のような膜で覆われている。果肉は白く氷雪のようである。果汁は甘酸っぱい。 おおよそこの通りではあるが、実際は説明以上の秀品である。
枝から切り取ると、一日で色が変わり、二日で香りが変わり、三日で味が変わってしまう。四五日経つと、色も香りも味も全て失われてしまう。
元和15年(西暦820年)の夏、南賓の太守である樂天(白居易)が画家に命じてライチの絵を描かせ、書をしたためた。ライチを知らない者、また知っていても収穫後3日以内のものを見たことがない者のためにである。



夢想疎石の夢中問答と一緒に出題された、大学の入試問題。 もちろん漢文で出されています。 ( )のうち5つは問題文にもかながふってあり、一部を除いて返り点や送りがなも付けてあります。 また、注釈もありました。

設問は、①一部を書き下し文とすること。 ②一部を口語訳すること。 ③白居易は、荔枝の果物としての性格のうち、どうした点に最も注目しているか、句読点を含めて三十字以内で簡潔に記せ。


受験した17歳の時には、茘枝がどのような果物か知りませんでしたし、ライチという言葉もたぶん知らなかったと思います。 ただ、真の風味を決して味わうことのできない幻のフルーツという理解をしていたことでしょう。

因果応報とはあるもので、その後私はライチが好物になりました。 今でも大好きです。
種が枇杷に似ていること、果肉が氷雪のように白いことはその通りですが、果汁にさほど酸味は感じられませんよね。

網走まで 志賀直哉著 [文学]

中学・高校の頃、短編小説が好きで、芥川龍之介・井伏鱒二・井上靖・志賀直哉などの旺文社文庫を買って読んでいました。

『網走まで』は1910年(明治43年)に発表された作品ですが、タイトルに騙されて買ってしまった一冊。網走までの紀行文かそれに近いものを期待したのに、実際は上野から宇都宮までのお話です。
日光での滞在を誘われた主人公が一人で乗り込んだ青森行の列車で、同じボックス席に座った乳飲み子を含む2人の子供を連れた若い母親の行先が網走だったというそれだけのストーリー。主人公との会話の中に、明治の時代ですから北見の国網走まで7日かかるとの母親の心配そうな声。
平成の時代になり新幹線が青森まで開通しても鉄道では網走までは17時間ほどかかります。 極力各駅停車だけで(一部区間は特急しか運行していません)行くと、今でも3日かかる遠い距離ですね。

トイレに行きたいとむずかる男の子。 宇都宮での停車時間を利用して母親がトイレに連れて行くことに。 昔は大きな駅では数分から10分以上の停車時間がありました。
主人公が私はここで降りるので、と一言声をかけると、少し驚いた様子の母親。 葉書の投函を主人公に頼みます。 投函したところで物語は終わります。 葉書の宛先を何気に見たことを説明して。

なんだか消化不良になった作品でした。

夢窓疎石著 夢中問答 [文学]

夢窓疎石は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての禅僧です。 著作も残していますが、苔寺の名称で有名な西芳寺などの庭園を手掛けた有名な庭師でもあります。

その著書『夢中問答』は、南北朝時代の法語集で3巻93編からなります。1344年刊。仏法の要義や禅の要諦と修行の用心を、足利尊氏の弟の足利直義に対する問答体として、漢文ではなく読みやすい かな混じり文で述べたものです。

その中の第6編の中に以下のようなお話があります。

【原文】
中比一の老尼公ありき。清水に詣ふでねんごろに礼拝をいたして、願はくは大悲観世音、尼が心にいとはしき物を早く失ふてたび候へ、とくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給うぞと問ひければ、尼がわかかりし時より枇杷をこのみ侍るに、あまりにさねのおほきことのいたはしく覚ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ参りて、比の枇杷のさねをうしなふてたび候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。たれだれも枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、観音に祈りもうすまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り伝へり。

【口語訳】
 少し前に1人の老尼僧がいました。清水寺に詣でて丁寧に礼拝をし、「お願いですから大悲観音様、この尼が心から嫌う物を早くなくしてくださいませ」と繰り返しお願いしていました。傍で聞く人がこれを不思議に思って「何をそんなに熱心にお祈りしておられるのですか」と尋ねると、「尼は、若かりし時から枇杷が大好きですが、余りにも種が大きいので邪魔に思えてしまい、毎年5月になるとこちらにお詣りして、この枇杷の種を無くしてください、とお願いしていますが、未だそのご利益はありません」と答えました。誰であっても、枇杷を食べる時には種が邪魔なものですが、わざわざ観音様にお祈りするまでのことではないということが、おかしく、虚しいこととして、語り伝えられています。


足利直義が、夢窓疎石に対して
「和尚様、お聞きしたいことがあります。 私は幼い頃から、仏様や菩薩様は皆、民衆の願いを叶えてくれる存在であると教えられてきました。いや、むしろ、こちらから願うまでもなく、苦しんでいる者があれば向こうの方からやってきて楽にしてくれる、そんな存在が仏や菩薩であると。ところが実際には、必死になって祈ったところで、叶えられることなどほとんどないではありませんか。
これはいったい、どういうことなのでしょか。」
と問いかけたことに対する答えの中の一部。他にもいくつかの事例が紹介されています。

輪廻転生と因果応報の思想に基づく仏教では、前世の悪行による禍は避けることができない。よって、お釈迦様には、
1.縁のない人を助けられない。2.全人類を救済し尽せない。3.既に作られてしまった原因から結果が発生することを防げない。
ということになっている。
また、何でもかんでも神仏に祈れば願いがかなってしまうと、人間は堕落してしまう。 努力なくして成果は得られないということも教えないといけない。などなどと説いています。



【原文】を紹介した部分が、昔々、私が受験した時に出題されたK大学の入試問題。 全文を口語訳せよ。 といくつかの読み方についての設問でした。 食べ物関連の問題でしたから、なんとなく解って助かりました。

ちなみに、漢文の問題は、唐時代の白居易(白楽天)の茘枝(ライチ)に関する漢文でした。 これまた私向きの問題で助かりました。

天平の甍 井上靖著 [文学]

1300年近くも前の聖武天皇の時代、日本は疫病の流行や飢饉で荒廃していました。 聖武天皇は、信仰が深く、日本の危機を仏の力で救うおつもりでした。 東大寺大仏建立の詔を出しましたし、中国から高僧を招くことも考えました。
普照と栄叡の留学僧が、唐の国に派遣され、苦難の末に鑑真和尚が来日します。 幾度となく船が難破し、鑑真は視力を失ってしまったことは、様々な伝記やアニメなどでも紹介されていますから、ご存じない方の方が少ないでしょう。

『天平の甍』は、普照たちが苦難の末に鑑真を日本に招く物語。映画化もされています。 井上靖は、多くの経典を一心不乱に書き写して日本に持ち帰ろうとしながらも自らも海の藻屑と化してしまい、いわゆる骨折り損のくたびれ儲けになってしまう業行という修行僧を登場させています。
私にとって印象的なのは、物語の最後の部分。 誰からかはわからないけれど、唐から普照に一対の鴟尾(瓦葺屋根の大棟の両端につけられる飾りで建物を火災から守る意味を持つ)が送られてきたというくだり。 恐らくは故あって唐に残った留学僧仲間の2人のうちのいずれかからではないかと普照は推測しています。 

2年ほど前、唐招提寺平成の大修理の特別番組の再放送を見ました。 唐招提寺の金堂は763年の鑑真の死後30年以内に建てられたものと推定されていますが、屋根に載せられている鴟尾のうち、東側の部分は鎌倉時代1323年の補作で、西側の部分は創建以来1200年以上もの間風雨にさらされながらも唐招提寺を守ってきました。 今から1200年以上も昔に1200年の耐久性のある鴟尾を焼き上げた職人芸。天平文化の高度な技術を今に伝えていますね。 鎌倉時代に作り直された鴟尾は、奈良時代のものよりも品質が劣るそうです。 番組中の解説では、数百年の年月の間に陶器製鴟尾を作る技術が廃れてしまったのではとコメントしていました。
平成の大修理で、鴟尾は新しく作り直され、奈良時代のものも鎌倉時代のものも別途保管されることになり、現役引退しました。

日本史好きの私ですが、聖武天皇とその娘である孝謙天皇の時代はミステリアスで興味深いものです。 特に孝謙天皇は歴代の天皇の中でも特異でしたから、コミックや小説に数多く登場しています。 機会があれば紹介しましょう。

虫めづる姫君 堤中納言物語 [文学]

理系の大学に進んだ私ですが、高校時代は、日本史・古文・漢文が好きで得意でした。 徒然草が短いお話の集まりで、比較的読みやすいこともあって親しみやすかったですが、それとは別にとても気になる作品がありました。 それが堤中納言物語に収録されている『虫めづる姫君』です。

堤中納言物語は、平安時代後期から鎌倉時代に作られたと思われる短編物語を集成したもので、現在10編が伝えられています。 見方によっては日本最古の短編小説集ともいえます。 ただし、10編の作者や成立時期は同一ではないようです。 現存する伝本が全て江戸時代の写本であるため、詳細は謎に包まれたまま。『虫めづる姫君』はその中の一編。

『竹取物語』の原文と口語訳併記の解説書におまけでついていたので読むことになりました。高校2年生の頃のことでしょう。

あらすじを紹介。

蝶を美しいと思う普通の姫君の近所にとても変わった姫君が住んでいた。中流階級の貴族の娘で、「花とか蝶を美しいと思うのは当たり前すぎて面白さに欠ける。人というものは率直に物事の本質を探究するところに意義がある。」と言って、様々な気味悪い虫を集めては虫籠に入れて成長・変化の様子を観察して楽しんでいる。中でも毛虫がお気に入りであった。当時の上流階級の女性は前髪を垂らして額を半ば覆う髪型が普通であったが、これでは虫の観察に差し障るということで耳にかけて後ろにかきやるという身分の低い女性の髪形をして、手の上に毛虫をはわせていた。 侍女たちは怖がるので、身分の低い男の子の召使を使って虫を捕まえさせ、虫の名前を尋ね、初めてのものには自分で名前を付けていた。 召使たちにもけらを・いなごまろなどと虫の名前を付けるという念の入れよう。
人というものは、飾らずに自然のままでいるのが一番と、当時の女性の身だしなみであった眉を抜くことや、お歯黒をつけることをしなかったので、黒々とした眉や真っ白な歯は傍から見て異様であった。
両親はたいそう心配して、姫君に世間体があるからと注意するのであるが、姫君は、「そのようなことを気にする必要はありません。物事の本質を探究し、行く末を見るからこそ知識欲が満たされて清々しいのです。これを非難するのは幼稚なこと。このように毛虫が蝶になるのです。」と羽化する蝶を取り出して両親に見せている。「絹だと言って人が着ているものも蚕がまだ蛹のうちに絹糸を取るのであって、蚕が羽化して蝶になってしまえば役立たずとなって相手にされません。」と屁理屈をつけて言い返すので両親も呆れ果てている。
世間で噂になって、物好きな貴公子が一目姫君を見てみようとやってきて、覗き見をしてみると、姫君は中年女性が着るような薄黄色の袿の上にキリギリス模様を織り込んだ小袿を重ね、袴は当時の女性が好んだ緋色ではなく、一般的に男性用とされた白であった。着ている物も奇想天外。
意外にも清楚な感じがして醜いところはなく、きちんと化粧をすれば、それなりの美人になるだろうにと貴公子は残念がった。 せっかく来たのだからと、冷やかし半分の恋歌を書いて渡したら、姫君も「世間一般とは違う私の心の中を知りたいのならあなたのお名前をお知らせください」と歌で返した。
貴公子は、「毛虫のような毛深い眉をしていても、奥ゆかしいあなたのような女性は他にはいませんよ」と言って笑って帰ってしまった。
この続きはまたの機会に。


という形で終わっていますが、続編はありません。


男だから…とか、女だから…というのが大嫌いだった高校生の私にはとても魅力的な作品でした。
世間体を気にすることなくわが道を行く姫君も素敵ですね。 賢くて頭が切れそうなところもいい。

魔術 芥川龍之介著 [文学]

小学生の頃、本が大好きでした。教科書も学年の初めにもらったら数日で全部読破して覚えてしまい、授業中退屈なので、図書室から持ち出した本を読んでいました。 今はそんなこと決してできませんが、目で本を読みながら、耳で授業を聞いていたので、先生に当てられても100%正解を答えていました。可愛くない小学生だったと思います。

中学生の教科書に芥川龍之介の『トロッコ』が載っていました。 ああいう素朴な作品その頃から好きでした。で、旺文社文庫の芥川龍之介著『南京の基督・山鴫 他九編』を買って読みました。
『南京の基督』は、主人公が15歳の娼婦で直接的な性的描写はありませんが、大人の世界を垣間見ることのできる作品は中学生には十分すぎるほど刺激的でした。 こんな作品と一緒に収められていたのが『魔術』です。どちらも谷崎潤一郎と関わりのある作品とか。

『魔術』は、1920年1月に赤い鳥で発表されたことから判るように、児童向けの文学作品です。 芥川の作品はジャンルが幅広いですから。

インド人の友人マティラム・ミスラに魔術を教えてもらいたいという主人公に対して、魔術を学ぶためには私欲を捨てきらないといけないと諭すマティラム・ミスラ。 そのつもりで教えを乞うた主人公ですが、事前の催眠試験で私欲を露呈してしまい、学ぶ資格がないことを悟ったという筋書きです。

こんな作品が気になったのは、2010年2月に日本文学シネマとしてTBSで30分番組として放送されたから。主演は塚本高史。 私が見たのはテレビ神奈川かMXTVでの再放送。 
http://www.bungo.jp/magic/

日本文学シネマは、太宰治、森鴎外、谷崎潤一郎などの短編小説6作品をテレビドラマ化したもの。向井理や加藤ローサが出演している作品もあります。数多くある芥川龍之介の短編小説から唯一選ばれてテレビドラマ化された『魔術』。 それなりの魅力があります。 読んでいると臨場感が漂ってきますね。 テーブルクロスに描かれた花を取出したり戻したり、本が部屋の中を飛び交ったり。 トランプのキングがカードから飛び出してくるという着想もなかなかです。

冒頭の部分を以下に紹介しましょう。


ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒を下しました。もう鼠色のペンキの剥げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の明りで見ると、印度人マティラム・ミスラと日本字で書いた、これだけは新しい、瀬戸物の標札がかかっています。
 マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門の秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。私はちょうど一月ばかり以前から、ある友人の紹介でミスラ君と交際していましたが、政治経済の問題などはいろいろ議論したことがあっても、肝腎の魔術を使う時には、まだ一度も居合せたことがありません。そこで今夜は前以て、魔術を使って見せてくれるように、手紙で頼んで置いてから、当時ミスラ君の住んでいた、寂しい大森の町はずれまで、人力車を急がせて来たのです。

足摺岬 田宮虎彦著 [文学]

中学校か高校の国語の教科書に載っていた田宮虎彦著の小説『足摺岬』、人生に絶望した大学生が死に場所として足摺岬を選び、訪れたものの、自殺することなく、たまたま泊まった商人宿で伴侶を見つけるというお話。もっとも太平洋戦争前後のお話で、結婚相手は若くして亡くなり、その弟は特攻隊に召集されたものの復員してから深酒にはまるようになってしまったりという悲しいストーリーです。人のよさそうな行商人、幕末に官軍に討たれた藩の元藩士の老人など個性豊かな登場人物がリアルに描写されていました。
なぜか気に入ってしまった私は、田宮虎彦の他の作品が読みたくなり、校内の書店で紙箱入りの旺文社文庫『足摺岬他五編』を買って読みました。この本は今でも手の届くところに置いてあり、紙箱はボロボロになって捨てられてしまいましたが、本体は何十回と読まれています。
他五編というのが、『卯の花くたし』『鹿ケ谷』『比叡おろし』『絵本』『菊坂』。旧制第三高等学校から東京帝国大学へ進学した苦学生を主人公とした私小説。『比叡おろし』までの三編は京都が舞台で、『絵本』以降は東京が舞台になっています。これらの作品を読んで、京都の大学へ進みたいと強く思うようになりましたから、人生の進路を決めるに当たって大きな影響を及ぼした一冊と言っていいでしょう。
物語の舞台は京都と東京なのになぜ京都を選んだのか。今思うに、京都を舞台とした作品中には琵琶湖疏水やその周辺の豊かな自然が描写されていたのに対して、東京を舞台とした二編には都会の殺伐とした風景だけが書かれていたのが理由のような気がします。

私は、特別裕福な家庭に育ったわけではありませんが、経済的には不自由することはありませんでしたから、苦学生に憧れていた一面もありました。父が仕事の関係で大阪にアパートを借りていたこともあり、最初の2年は大阪から通学し、残り2年は百万遍の近くから歩いて通いました。吉田神社や如意が嶽(大文字山)にはよく登りましたが、他はあまり訪れませんでした。もっと街歩きをしておけばよかったと思います。

小説を読んでから、一度は訪れてみたいと思っていた足摺岬を初めて訪れたのは21歳の12月25日だったと思います。大学が冬休みに入り、愛知県の実家に帰省するつもりが、京都駅で国鉄の四国周遊券を買って西へ向かいました。岡山から宇野線。夜遅くに宇高連絡船で高松に渡りました。当時は全国的に夜行列車が多く運行されていて、周遊券さえ持っていれば、急行は急行券なしで乗車できました。 日付が変わってすぐに発車する中村行きの夜行普通列車に乗って終点の中村駅へ。翌朝バスに乗って足摺岬へ向かいました。お昼前には着いたと思います。

石礫のように檐をたたきつける烈しい横なぐりの雨脚の音が、やみ間もなく、毎日熱にうなされていた物憂い耳朶を洗いつづけていた。

小説『足摺岬』の冒頭文。私は嵐の足摺岬、せめて荒波の押し寄せる足摺岬を期待して訪れたのですが、晴天で風もなく椿の花が咲いていました。 凪いだ太平洋を眺めて、こんなはずではなかった というのが正直な感想でした。
そのまま中村駅に戻り、四国4県を5日間ほど放浪してから実家に帰ったように思います。宇和島から高松へ向かう夜行列車で前の席に座った美容師のお姉さんに缶コーヒーをご馳走してもらったことをふと思い出しました。せっかくだからと帰りは仁掘連絡船で瀬戸内海を渡りました。その後間もなくしてこの航路は廃止されましたから貴重な経験をしたと言えます。

それより以前に父と二人で車で四国を旅行したこともありますが、その時は高知から室戸岬を訪れ、足摺岬には行きませんでした。

20代から30代にかけては、当時携わっていたボランティア活動で、松山、徳島、高知を度々訪れました。その後、仕事でも四国各地を何度となく訪れました。高知のお取引先でご馳走になった鰹のたたきの美味しさは忘れられませんね。宇和島でウツボを食したこともあります。

2回目に足摺岬を訪れたのは9年前の5月になります。知人に現地ガイドを紹介していただき、小説に書かれていた竜串の奇岩などを見て回りました。その時もやはり静寂な足摺岬でしたが、なぜか物足りなさは感じませんでした。

今年はたぶん無理でしょうが、来年9月の台風シーズンに数日間足摺岬に滞在してみましょうか。ふとそんなこと思いました。四国八十八カ所巡礼も全行程徒歩でいわゆる通し打ちで体験してみたい。