SSブログ
鉄道の思い出 ブログトップ

鉄道の思い出(9)急行高千穂 [鉄道の思い出]

1972年3月まで運行されていた日本最長の急行列車。東京駅と西鹿児島駅を東海道本線・山陽本線・日豊本線経由で結んでいました。所要は約28時間。前日の列車がまだ終着駅に着く前に、翌日の列車が発車してしまいます。途中まで、鹿児島本線経由の急行桜島と併結。座席車のみ食堂車もないこの列車で28時間をどのように過ごしていたのでしょうか。残念ながら乗車経験はなく、時刻表のみで知る列車でした。

当時、名古屋発の熊本行き急行阿蘇があったことを記憶しています。こちらは寝台車も連結されていました。同じく1972年まで運行されていた電車特急つばめ名古屋⇔熊本は実物を見た記憶ありです。残念ながら乗車経験はありません。当時、名古屋では珍しい小豆色とクリーム色に塗装された名古屋⇔博多の急行玄海を急行赤倉乗車前に見送ったことは以前紹介したとおりです。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(8)路面電車 [鉄道の思い出]

今でも札幌、函館、広島、長崎など全国各地で活躍している路面電車ですが、廃止されてしまったものが多々あります。その中からいくつかの思い出を。

①名古屋市電
1960年代後半に乗った記憶が。幼少のころ昭和区に住んでいたので母と一緒に八事まで乗っていたような気がします。名古屋駅前のロータリーを横切る形の停留所が印象的でした。中学生のころまで残っていて、定期券を持っている同級生がいました。

②京都市電
1978年9月末廃止。最後の半年間、東山三条⇔百万遍の通学定期券を利用していました。京都駅までの引き込み線と東大路、北大路、西大路、九条通の外周線だけ残っていました。系統は京都駅まで行く6系統と外周を回る22系統だけ。現在の市バスの206系統と222系統に引き継がれています。
当時は大阪から京阪電車で通っていて、京阪三条も東山三条も通学定期は同額でしたから、京津線の京阪三条⇔東山三条も利用。こちらも路面電車でした。東山三条交差点は路面電車同士の交差点でもありました。今は面影もありません。

③名鉄岐阜市内線
1978年3月、受験の際利用しました。運賃は50円だった記憶が。利用は後にも先にもこの日限り。

④西鉄北九州線
乗車したことはありませんが、国鉄時代、九州ワイド周遊券を乗り回していたころ、国鉄の車窓から長い距離を走る路面電車だなぁ…と見ていました。今調べてみると門司から折尾まで25㎞ほど。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(7)ブルートレイン [鉄道の思い出]

トワイライトエクスプレスに続いて北斗星も廃止されるとの報道がありました。
青色に塗装された客車寝台列車、いわゆるブルートレインが消えて無くなる日ももうすぐです。

これまでに乗ったことのあるブルートレインの思い出をいくつか。 記憶が定かではないので年代は順不同です。

①はやぶさ 東京発 西鹿児島行(鹿児島本線経由)
通常のB寝台料金で利用できる一人用個室ソロが熊本まで連結されていて、東京→熊本を2回ほど乗車したことがあります。 一度はプライベート、一度は出張。 スペースだけからすると山谷の安宿みたいなものですが、列車の中でドアと壁で確保された個室スペースというと聞こえはよくなりますね。
夕方5時ごろに東京駅を出て、翌朝10時過ぎに熊本駅に着きます。 まだお酒のおいしさに気づく前でしたから、東京駅で駅弁とお茶を買い込んで乗り込んだ記憶があります。当時はデパ地下に疎かったものですから。
食堂車もありましたが、今と違って希少価値もなかったので、利用することもありませんでした。
天井の低いB寝台個室ソロ。 ただ横になってぼーっと過ごしていたような気がします。
関門トンネルを通過する頃には夜が明けています。少し前に停まるのが厚狭(あさ)駅。朝にとまるから「あさ~」なんて親父ギャグが流行ったこともありましたっけ。
通路には折りたたみ式の椅子が付いていましたが、ほとんど利用することがありませんでした。
ほどよい振動と、懐かしのオルゴール付車内放送。 1990年代の出来事です。


➁富士 東京発 南宮崎行(日豊本線経由)
かつては西鹿児島駅までの運行でしたが、1990年代には南宮崎行に短縮されていました。この列車もB寝台個室ソロが大分駅まで連結されていて、別府在住の友人を訪ねるため、大分駅か別府駅まで乗車したことがあります。
東京駅を夕方5時頃に出発して、大分駅に着くのは翌朝9時半頃。はやぶさ同様、東京駅で駅弁とお茶を買って乗り込みました。 食堂車も付いていましたが、小倉駅くらいで朝食用に駅弁を買ったかもしれません。
客室の造りははやぶさと同じ。低い天井の個室で横になってあれこれと考え事をしながらぼーっと過ごしていました。

③富士 南宮崎発 東京行(日豊本線経由)
上りの寝台列車は、旅の帰路ということで、下り列車ほどの新鮮感もないため、あまり記憶に残っていませんが、広島出張の際、往復の新幹線指定席料金よりも安く、往路新幹線グリーン車・帰路B寝台という割引切符を見つけて利用した時のことははっきり覚えています。
新幹線のグリーン車に乗車したのは後にも先にもこの1回だけです。
広島発は夜の10時過ぎ、広島駐在の先輩社員に10時近くまで居酒屋で付き合っていただきました。
個室ではない、2段式のB寝台。上段だったのか下段だったのか記憶にありません。
東京駅に着くのは、翌朝10時頃。食堂車の朝食営業案内放送に若干心を動かされたものの結局、利用しませんでした。 今振り返れば、食べておけばよかった。 東海道本線のブルートレインの食堂車で朝食を食べる経験をし損ないました。

④さくら 東京発 長崎・佐世保行
東京駅を午後4時半頃の出発。 1990年代、数多くのブルートレインが東京駅から西に向かいましたが、一番最初に出発するのがさくらです。 福岡での朝9時からのお仕事にぴったりでしたから、出張で東京駅→博多駅をA寝台で一度だけ乗車しました。 A寝台といっても、北斗星やトワイライトエクスプレスのような豪華設備ではなく、洗面台が設置されている程度。 まだ30代前半でしたが、若干セレブ気分を味わい、食堂車で夕食をいただきました。 おぼろげですが、ハンバーグ定食1000円。 学食のようなちゃちなテーブルの記憶が残っています。 博多駅には8時過ぎに到着。 9時からのお仕事にはうってつけでした。 朝食は食べなかったかもしれません。

⑤日本海 大阪→函館
大阪出張の直後に函館でのお仕事を無理やり作っていただいて、出張で利用しました。 会社の規定ではA寝台利用可能でしたが、A寝台は青森行に連結されていて、函館行は二段式のB寝台だけ。選択の余地がありません。
大阪駅午後5時半頃に出発して函館着は翌朝11時過ぎ。食堂車が連結されていませんから、車内での2食は間違いなく駅弁。 夕食は大阪から持ち込むとして、朝食は青森駅で買ったのでしょうか。 
朝6時半過ぎから、途中乗車のお客様があって、ふと目を覚ますと向かい側に知らない人が座っていたりしてびっくりします。

函館でのお仕事の後、札幌まで特急北斗で移動しました。 帰りは北斗星A寝台個室ロイヤルだったと思います。


⑥北斗星 上野→札幌
数回乗車したことがあります。 会社の旅費規定がA寝台なので、一人用個室ロイヤル。幸か不幸か北斗星には一人で利用できるA寝台はこれしかありません。
当時は毎日3往復。とはいえ、ロイヤルは一日12室だけなので、チケットの確保はそこそこ難しくて、札幌の営業担当の方には、発売開始である1か月前までにスケジュールの確定をお願いしていました。
当時の時刻表を調べてみると、上野発は、16:50、17:17、19:03 で札幌着が、8:53、9:20、10:53。
お仕事の効率からすると最初の2本に乗ることが多かったと思いますが、チケットの手配や出発日の仕事のスケジュール上19:03発に乗ったこともあります。
寝台列車の旅の醍醐味のひとつが、明るいうちに発車して、徐々に黄昏ていく車窓を楽しむこと。 19:03発はそれができないので少し残念です。
過去記事でも紹介しましたが、北斗星のロイヤルは、天井も高くて部屋もゆったり。 ベッドのほかにソファ。 トイレとシャワーも付いています。シャワーは10分か15分の使用時間制限がありますけど。 モニター画面があって、映画が上映されています。 記憶に残っているのは、「わが愛の譜 滝廉太郎物語」と「天城越え」の2本。 男はつらいよシリーズや釣りバカ日誌シリーズも見たような気がします。
石鹸・歯ブラシなどグリーンのケースに入ったアメニティーセットも用意されています。物が捨てられない私のこと、1つくらい残っているかも…と探してみましたら、やっぱり出てきました。
北斗星が3セットとトワイライトエクスプレスが1セット。
141208_0347~01.jpg
赤がトワイライトエクスプレス、緑が北斗星。
北斗星の中身はこちら。おそらく石鹸箱が欠落しています。携行に便利なので他で使ったのでしょう。
141208_0346~01.jpg

それと、ワインハーフボトル、ウイスキーのミニボトル、缶入りのミネラルウォーターとお茶と氷を食堂車の係員さんが部屋まで運んできてくれます。
その際、翌朝のモーニングコーヒーの時間を聞かれるので答えると、その時間にコーヒーと朝刊を持ってきてくれます。

食堂車は事前予約制ですし、めちゃくちゃ高いので、上野駅で駅弁を買い込んでおきます。 宇都宮に着く頃には食べきっていたかも。 朝食はコーヒーが出るので、パンだけ買っておいたのかもしれません。 ただし、せっかくの体験なので、一度か二度食堂車で朝食をとったことがあります。 右側に太平洋が広がっていたような気もしますが曖昧な記憶です。 東海道本線のブルートレインの食堂車と違って高級感が漂っていました。

⑦北斗星 札幌→上野
こちらも出張で数回利用しました。乗車回数は上りの方が多いはずなのに、やはり、下りと比べると記憶が薄いです。
時刻は、札幌発 17:13、18:14、19:24 で上野着が、9:17、10:12、11:12。
到着後のお仕事を考慮して、早い時間に乗ることが多かったと思います。設備や車内サービスは上野発と一緒。 違うのは持ち込むのが美味しい札幌の駅弁であること。 朝食用と合わせて少なくとも2つは買っていました。 上りでは食堂車は利用しなかったと思います。

⑧トワイライトエクスプレス 大阪→札幌
青色ではなく深緑色の客車なので厳密にはブルートレインではないかもしれません。
下りのみ2回乗車しました。大阪→札幌21時間の長旅です。A寝台ロイヤルとB寝台個室シングルが1回ずつ。 ロイヤルの設備は北斗星とほぼ同じ。 アメニティセットが赤色で内容も少し充実。 車内サービスはアルコールの量が少ない分、おつまみセットが付いていました。 コーヒーと新聞のサービスは同じです。

B寝台個室シングルはソファがあるので、ロイヤルほどではありませんが、少し楽です。

唯一食堂車の庶民的なランチが食べられる列車で、オムライスやハンバーグなどなどあるのですが、食べたことがありません。今思えばとても残念なことをしました。

夕食は事前予約制で極めて高価なため一人では食べる気になれません。 それでも一度だけ食堂車で準備した特製弁当(1500円くらい)を買って個室内で食べました。 事前に食堂車の係員が注文を取りに来たと思います。
朝食もB寝台利用時はコーヒーのルームサービスがないので、食堂車でいただきました。

これから先、北斗星もトワイライトエクスプレスも超人気でチケットの確保が難しいと思います。
振り返れば、30代の頃十分に堪能しましたから、わざわざ乗る必要もないでしょう。

今は、フェリーの旅の方が、コスパもよくて快適です。

nice!(8)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(6)長距離普通列車 [鉄道の思い出]

青春18きっぷの旅をしてふと思いました。 
昭和の時代には、今ほど乗換えをしなくても遠くまで行けたのに…
今は各駅停車は小間切れ運転になってしまいました。
例えば、東海道本線。 現在、東京駅から出ている各駅停車は沼津まで。
去年の3月までは、静岡行がありましたし、以前は浜松行もありました。

中学生の頃、名古屋市内の中央本線を長野発や松本発の客車列車が走っていましたし、新潟に単身赴任していた父を訪ねるために、米原発直江津行に乗ったこともありました。9時間以上かけて353.8㎞を走ります。 東京-名古屋間とほぼ同じ距離になります。

高校生の頃、読んでいた少女漫画、札幌から函館まで普通列車で移動する場面があったように記憶しています。

今は、300㎞を超える長距離普通列車は数えるほどしかありません。

詳しく調べていらっしゃる方の資料
  ↓↓↓
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/nishimura/18kippulink/donko.htm

距離的には、岡山発新山口行の316㎞。
時間的には、滝川発釧路行の8時間2分。

長時間ランキング4位の上諏訪発豊橋行は昨年乗りました。
中央本線経由で東京→名古屋の移動中、豊橋行を見つけて思わず乗ってしまいました。
秘境駅で有名な飯田線、ある程度時間がかかると覚悟はしていましたが、4位にランキングされているとは知りませんでした。

1979年(昭和54年)には、福岡県の門司駅から兵庫県の福知山駅まで山陰本線を18時間30分かけて595㎞移動する普通列車があったようです。

一方で、先日青春18きっぷで移動した松山→東京は947㎞ですから、青春18きっぷを使って一日で移動できる距離は、今の方がアップしているようです。




nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(5)夜行列車 [鉄道の思い出]

今は、寝台列車も少なくなり、寝台列車以外の夜行列車は、季節運転のムーンライトくらいになってしまいましたが、昭和の時代には全国各地に座席車を主体とした夜行列車が多数運行されていました。当時は高速バスが今ほど普及していませんでしたから。
私の記憶にある普通乗車券だけで乗車できる各駅停車の夜行列車が6つ。

①東京⇔大垣 東海道本線の夜行電車。 快適なグリーン車が300円の格安料金で利用できました。 東京出張ついでに目いっぱい夜遊びして新幹線が終わった後、時々利用していました。

②小樽⇔釧路 客車夜行列車。「からまつ」の愛称があり、B寝台車が連結されていました。乗車したことはありません。

③京都⇔出雲市 客車夜行列車。「山陰」の愛称があり、B寝台車が連結されていました。 大学生の時に妹と一緒に出雲市→京都の座席車に、社会人になってから、知人と一緒に島根県太田市に行くために京都→出雲市の寝台車に乗りました。快適とは程遠い、とってもレトロな寝台車でした。

④門司港⇔長崎・佐世保 客車夜行列車。「ながさき」の愛称があり、B寝台車が連結されていました。 大学生の頃、九州周遊券を使って、何度か門司港⇔長崎の座席車に乗ったことがあります。

⑤名古屋⇔天王寺 紀勢本線経由の客車夜行列車。「はやたま」の愛称があり、新宮⇔天王寺はB寝台車が連結されていました。下りは19時間近くかかったようですが、一度も乗車したことはありません。

⑥高松⇔高知・中村 宇高連絡船に接続していた夜行列車。気動車(ディーゼル)です。 大学生の時に足摺岬へ行くため、高松→中村に一度乗車したことがあります。初めて見る足摺岬がどのようなところか期待に胸を弾ませていた車中。

ちなみに、私の夜行列車初体験は、中3か高1の時。 仙台の祖母を訪ねるために、上野発の急行あづま仙台行。座席車に乗りました。電車だったと思います。福島から先は各駅停車でした。 一人旅でしたが、名古屋から東京まで新幹線。慣れない東京で、上野まで移動してきちんと乗り換えができたようですね。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(4)木造客車 [鉄道の思い出]

中学生の時、3か月だけですが、名古屋から中央本線で通学したことがあります。 本数が少なく不便でしたが、1乗車40円で1カ月の通学定期券が440円と激安でしたから。

多くは、近距離の電車でしたが、時々、名古屋⇔松本・名古屋⇔長野の長距離の普通列車が走っていて木造客車でした。 ドアも手動で、いつでも乗り降り可能。 急ぐ時は列車がまだ動いているのにホームに飛び降りて、駅員からよく怒られていました。

この客車なのか、時折混ざっていた気動車なのか、記憶は定かではありませんが、ごくたまに、「二等車」と書かれた擦りガラス入りのドアがある車両が連結されていました。 かなり古い印象でしたが、ゆったりとしたソファーのような座席で、貴賓席のような感じ。 定期券でもそのまま乗れたので、10分そこそこの乗車ですが、セレブ気分を味わっていました。
グリーン車が導入される前の二等車(庶民が乗るのは三等車)だったと思います。 今思えば、写真に残しておけばよかった。 間違いなく、私が生まれるよりも前に製造された車両です。

今と違って中央本線は本数が少なくて不便でしたから、その後は高校卒業まで、地下鉄や市バスに通学方法を変えました。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(3)食堂車 [鉄道の思い出]

今となっては、北海道への寝台特急にしか残っていない食堂車。 昭和の頃は、新幹線はもちろんのこと、ほとんどの在来線特急に食堂車がありました。

親に食堂車へ連れていってもらった記憶はありません。覚えているのは自分で入った食堂車。一人で食べたことがほとんどです。

①特急ひばり(上野→仙台)
大学生の時、愛知県の実家から仙台の祖母を訪ねて行った時のことだと思います。私の記憶では人生初めての食堂車。 お昼にはまだ随分と早い時間に、上野を出て早々に緊張しながら一人で食堂車に行きました。 あやふやな記憶ですが、焼肉定食800円。 味は覚えていません。

②ひかり(東京→新大阪)
20代の頃の大阪でのお仕事。 午後1時待合せでしたから、昼食を済ませておかないといけないと思い、京都あたりで慌てて食堂車に駆け込みました。 カレーライス。コーヒーとサラダが付いていたかもしれません。価格不明。 とにかく急いで食べた記憶があります。
取引先に着いたら、お昼に行きましょうということになって、この日は昼食を2回食べる羽目に。 それでもしっかり食べきった自分が怖い。

③特急さくら(東京→博多)か 特急はやぶさ(東京→熊本)
福岡でのお仕事のために、さくらのÅ寝台に乗った時か、熊本でのお仕事の時に、はやぶさのB個室寝台に乗った時かのいずれか。 
熱海付近で食堂車に向かったような… 学食のようなちゃちなテーブルでした。 たぶんハンバーグ定食1000円。 食堂車で食べた初めての夕食。 味の方の記憶はありません。 なんだか寂しいイメージが残っています。
ちなみにさくらのA寝台。洗面台が付いているくらいで、大したことないという感想でした。

④トワイライトエクスプレス(大阪→札幌)と北斗星(上野→札幌)
どちらも札幌でのお仕事。会社の旅費規定でA寝台が使えることをいいことに、A個室寝台ロイヤルに乗りました。トワイライトエクスプレスは1回限りでしたが、北斗星は何往復かしたことがあります。
ロイヤルは、洗面キット・ワイン&ウイスキーミニボトル・翌朝のモーニングコーヒー・朝刊サービスといたれつくせりですが、折角の機会なので1回ずつ食堂車で朝食。 和食と洋食と各1回。 1500円くらい。 夜明けの北海道、どことなくお洒落な雰囲気の中での朝食タイムを楽しみました。
A寝台個室ロイヤルは、個室内にトイレ&シャワー付き。 ビデオモニターで映画も鑑賞できました。 滝廉太郎 と 天城越え を観た記憶があります。 天城越えの田中好子、名演技でした。

他には、三重県でお仕事していた20代の頃、東京出張の帰り、ひかり(東京→名古屋)の食堂車で上司や先輩方と一緒にご馳走になったことが2~3回。その頃はまだビールが飲めなかったし、あまり楽しいシチュエーションではなかったので記憶は薄いです。
nice!(0)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(2)急行紀州 [鉄道の思い出]

NHKのラジオ深夜便を聴きながら書いています。

中学生の頃かと思います。 その頃、父は大阪に単身赴任していました。名古屋から大阪まで、3つ違いの妹と2人で、尋常ではない方法で大阪まで行きました。 今はその方法では行きたくても行けません。

当時、名古屋から大阪までの乗り換えなしの移動手段としては、
①東海道新幹線
②近鉄特急
③東海道本線 急行比叡
④名神高速バス
が一般的でした。

私たちが乗ったのは、急行紀州 名古屋発天王寺行。名古屋から関西本線で四日市へ。河原田から伊勢線を経由して津。紀勢本線で天王寺まで。 と説明すると意外にあっさり行けるように勘違いをされる方もいらっしゃるので、念のために補足説明。 延々9時間かけて紀伊半島をぐるっと一周する列車です。 電車ではなく気動車。 昔はそんな奇抜な列車が全国各地で走っていました。 今は、京都・新大阪⇔新宮の”特急くろしお”も当時一部は天王寺⇔名古屋の運行でした。
名古屋駅で乗車券を買う時に、窓口の国鉄職員から、こんな面倒な切符を買うな!と怒られた記憶が残っています。上から目線、売ってやる&買わせていただく が当たり前の国鉄職員の時代です。
当時の記憶が少し残っていて、串本駅でここが本州最南端の駅と知ったこと。 和歌山県内の駅には今は廃止されてしまった私鉄が走っていたことなどなど。
昭和も50年代くらいまでは時間がゆったり流れていたものです。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

鉄道の思い出(1)急行赤倉 [鉄道の思い出]

実家にいると子供の頃を思い出します。小学生の頃、父は新潟に単身赴任していました。夏休みになると、名古屋から新潟まで父を訪ねるのが毎年の恒例行事。小学校4年生からは一人旅でした。 その頃は、高速道路も今ほどは開通していなくて、移動は鉄道が主流。特急も限られていて、庶民は急行を利用していました。

名古屋発新潟行き急行赤倉、毎日1往復運転のこの列車に乗って8時間半かけての一人旅。席の確保のために2時間近く前から母と一緒にホームに並びました。 待っている間に、いろいろと列車が発車していきます。 覚えているのは、博多行きの急行玄海と出雲大社行きの急行大社。どの列車も今は残っていませんが、当時としてもかなり長距離にランキングされる急行列車だと思います。

列車がホームに入線して乗車。乗るのは私一人。新潟まで8時間半かかるので、駅弁を2つ買ってもらいました。お茶と冷凍みかんも。 外食がとても贅沢な時代でしたから、めったに食べられない駅弁はとても楽しみにしていました。名古屋の駅弁は記憶に残っていませんが、新潟の駅弁で海老がいっぱい入ったお寿司の記憶があります。 当時は主要駅のホームには駅弁売りとお茶売りがいて、空になったお茶の容器(ティーバッグは残っている)に10円でお湯を注ぐ商売もしていました。絶滅した昭和ビジネスのひとつ。
電車ではなく気動車。いわゆるディーゼルカーです。 出発の時や上り坂では独特のエンジン音が響きます。今ではめったに聞かれなくなりましたが、関西本線の亀山-加茂間はいまだに未電化なので、半年ほど前、青春18きっぷで 名古屋→亀山→加茂→大阪→米原→大垣→豊橋→浜松→熱海→小田原→新宿 と乗り継いだことがあります。

脱線した話を元に戻して、11時に名古屋を出発して中央西線で塩尻まで。ここで進行方向が変わります。今は配線変更をしたので、特急しなのは名古屋から長野まで進行方向が変わることはありません。 進行方向が変わる列車、昔はよくありました。仙台に祖母がいたので、新潟⇔仙台もよく乗りましたが、急行あがのは、仙台から郡山まで東北本線を南下、郡山で進行方向が変わって、磐越西線では会津若松駅で再び進行方向が変わりました。
新潟に着くのは19時半過ぎ。父がホームまで迎えに来てくれていました。今のように携帯がない時代。8時間半の長旅は孤独との戦いですね。まぁ、子供一人でいると、周りの大人があれこれ気を使ってくれる昭和のよき時代でもありました。

新潟で2~3日過ごしたら、祖母のいる仙台へ。行きは新潟→坂町→米沢→山形→仙台の急行あさひ所要5時間、帰りは前述の急行あがの所要6時間。 ホームでの送り迎えは父と祖母。父は必ず駅弁を買ってくれました。 祖母は朝食を作って食べさせてくれるので多分駅弁は買ってくれなかったような気がします。仙台の駅弁の記憶がないので。 当時仙台の祖母の家には冷蔵庫がなく、アイスボックスなるものが存在しました。氷屋さんで氷を買ってきて、氷の融解熱で物を冷やす仕組みです。一貫目(3.75kg)の氷、買いに行かされましたが、小学生にはとても重いものでした。お風呂もガスではなく、練炭か豆炭を燃やして沸かしていました。

新潟から名古屋までは再び赤倉で8時間半かけて戻りました。駅弁2個持たされて。

今となっては、もう経験することができない懐かしい思い出です。
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行
鉄道の思い出 ブログトップ