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夢窓疎石著 夢中問答 [文学]

夢窓疎石は鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての禅僧です。 著作も残していますが、苔寺の名称で有名な西芳寺などの庭園を手掛けた有名な庭師でもあります。

その著書『夢中問答』は、南北朝時代の法語集で3巻93編からなります。1344年刊。仏法の要義や禅の要諦と修行の用心を、足利尊氏の弟の足利直義に対する問答体として、漢文ではなく読みやすい かな混じり文で述べたものです。

その中の第6編の中に以下のようなお話があります。

【原文】
中比一の老尼公ありき。清水に詣ふでねんごろに礼拝をいたして、願はくは大悲観世音、尼が心にいとはしき物を早く失ふてたび候へ、とくりかへし申しけり。傍に聞く人これをあやしみて、何事を祈り申し給うぞと問ひければ、尼がわかかりし時より枇杷をこのみ侍るに、あまりにさねのおほきことのいたはしく覚ゆる程に、年ごとに五月の比はこれへ参りて、比の枇杷のさねをうしなふてたび候へと申せ共、いまだしるしもなしと答へけり。たれだれも枇杷を食する時は、さねのうるさき事はあれ共、観音に祈りもうすまでの事にはあらずとて、おかしくはかなき事に語り伝へり。

【口語訳】
 少し前に1人の老尼僧がいました。清水寺に詣でて丁寧に礼拝をし、「お願いですから大悲観音様、この尼が心から嫌う物を早くなくしてくださいませ」と繰り返しお願いしていました。傍で聞く人がこれを不思議に思って「何をそんなに熱心にお祈りしておられるのですか」と尋ねると、「尼は、若かりし時から枇杷が大好きですが、余りにも種が大きいので邪魔に思えてしまい、毎年5月になるとこちらにお詣りして、この枇杷の種を無くしてください、とお願いしていますが、未だそのご利益はありません」と答えました。誰であっても、枇杷を食べる時には種が邪魔なものですが、わざわざ観音様にお祈りするまでのことではないということが、おかしく、虚しいこととして、語り伝えられています。


足利直義が、夢窓疎石に対して
「和尚様、お聞きしたいことがあります。 私は幼い頃から、仏様や菩薩様は皆、民衆の願いを叶えてくれる存在であると教えられてきました。いや、むしろ、こちらから願うまでもなく、苦しんでいる者があれば向こうの方からやってきて楽にしてくれる、そんな存在が仏や菩薩であると。ところが実際には、必死になって祈ったところで、叶えられることなどほとんどないではありませんか。
これはいったい、どういうことなのでしょか。」
と問いかけたことに対する答えの中の一部。他にもいくつかの事例が紹介されています。

輪廻転生と因果応報の思想に基づく仏教では、前世の悪行による禍は避けることができない。よって、お釈迦様には、
1.縁のない人を助けられない。2.全人類を救済し尽せない。3.既に作られてしまった原因から結果が発生することを防げない。
ということになっている。
また、何でもかんでも神仏に祈れば願いがかなってしまうと、人間は堕落してしまう。 努力なくして成果は得られないということも教えないといけない。などなどと説いています。



【原文】を紹介した部分が、昔々、私が受験した時に出題されたK大学の入試問題。 全文を口語訳せよ。 といくつかの読み方についての設問でした。 食べ物関連の問題でしたから、なんとなく解って助かりました。

ちなみに、漢文の問題は、唐時代の白居易(白楽天)の茘枝(ライチ)に関する漢文でした。 これまた私向きの問題で助かりました。
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