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鉄道の思い出(1)急行赤倉 [鉄道の思い出]

実家にいると子供の頃を思い出します。小学生の頃、父は新潟に単身赴任していました。夏休みになると、名古屋から新潟まで父を訪ねるのが毎年の恒例行事。小学校4年生からは一人旅でした。 その頃は、高速道路も今ほどは開通していなくて、移動は鉄道が主流。特急も限られていて、庶民は急行を利用していました。

名古屋発新潟行き急行赤倉、毎日1往復運転のこの列車に乗って8時間半かけての一人旅。席の確保のために2時間近く前から母と一緒にホームに並びました。 待っている間に、いろいろと列車が発車していきます。 覚えているのは、博多行きの急行玄海と出雲大社行きの急行大社。どの列車も今は残っていませんが、当時としてもかなり長距離にランキングされる急行列車だと思います。

列車がホームに入線して乗車。乗るのは私一人。新潟まで8時間半かかるので、駅弁を2つ買ってもらいました。お茶と冷凍みかんも。 外食がとても贅沢な時代でしたから、めったに食べられない駅弁はとても楽しみにしていました。名古屋の駅弁は記憶に残っていませんが、新潟の駅弁で海老がいっぱい入ったお寿司の記憶があります。 当時は主要駅のホームには駅弁売りとお茶売りがいて、空になったお茶の容器(ティーバッグは残っている)に10円でお湯を注ぐ商売もしていました。絶滅した昭和ビジネスのひとつ。
電車ではなく気動車。いわゆるディーゼルカーです。 出発の時や上り坂では独特のエンジン音が響きます。今ではめったに聞かれなくなりましたが、関西本線の亀山-加茂間はいまだに未電化なので、半年ほど前、青春18きっぷで 名古屋→亀山→加茂→大阪→米原→大垣→豊橋→浜松→熱海→小田原→新宿 と乗り継いだことがあります。

脱線した話を元に戻して、11時に名古屋を出発して中央西線で塩尻まで。ここで進行方向が変わります。今は配線変更をしたので、特急しなのは名古屋から長野まで進行方向が変わることはありません。 進行方向が変わる列車、昔はよくありました。仙台に祖母がいたので、新潟⇔仙台もよく乗りましたが、急行あがのは、仙台から郡山まで東北本線を南下、郡山で進行方向が変わって、磐越西線では会津若松駅で再び進行方向が変わりました。
新潟に着くのは19時半過ぎ。父がホームまで迎えに来てくれていました。今のように携帯がない時代。8時間半の長旅は孤独との戦いですね。まぁ、子供一人でいると、周りの大人があれこれ気を使ってくれる昭和のよき時代でもありました。

新潟で2~3日過ごしたら、祖母のいる仙台へ。行きは新潟→坂町→米沢→山形→仙台の急行あさひ所要5時間、帰りは前述の急行あがの所要6時間。 ホームでの送り迎えは父と祖母。父は必ず駅弁を買ってくれました。 祖母は朝食を作って食べさせてくれるので多分駅弁は買ってくれなかったような気がします。仙台の駅弁の記憶がないので。 当時仙台の祖母の家には冷蔵庫がなく、アイスボックスなるものが存在しました。氷屋さんで氷を買ってきて、氷の融解熱で物を冷やす仕組みです。一貫目(3.75kg)の氷、買いに行かされましたが、小学生にはとても重いものでした。お風呂もガスではなく、練炭か豆炭を燃やして沸かしていました。

新潟から名古屋までは再び赤倉で8時間半かけて戻りました。駅弁2個持たされて。

今となっては、もう経験することができない懐かしい思い出です。
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コメント 2

さつき

子供時代の一人旅。ちょっと不安だけど良い思いでですね。私もいい思いでは宝石箱に入れて時々開けて開けて見ます。
by さつき (2013-06-16 12:20) 

らしゃーぬ


大人になるための経験のひとつ。望むにしろ望まないにしろ 年とともに経験を積み重ねていくと大人になっていきます。 俗にすれていくとも言います。 思い出は大切にしたいですね。
by らしゃーぬ (2013-06-16 21:28) 

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